海を渡った道新ぶんぶん号
  ―多目的取材・宣伝車の旅路

 
北海道新聞社 経営企画室担当部長
          武野 伸二

 九死に一生の思いをしたはずだ。ひょっとすると身内に不幸があったかもしれない。そんな避難所の人々が「遠くからよく来た」「おなか減ってないかい」と、逆にいたわってくれた。2004年10月に起きた新潟県中越地震。その2カ月前に誕生した「道新ぶんぶん」号は、新潟日報社の要請を受けて現地入り。わずか1週間だったが、被災地で避難所新聞を発行した。災害現場での活動を念頭に置いた車両だったが、実地体験で車もスタッフも大いに鍛えられた。日本海を渡ったぶんぶん号の活動を報告する。

誕生まで
 「こんなこといいな できたらいいな」。ドラえもんの歌ではないが、現場で抱いてきた、ある意味の「夢」を具体化したのが、北海道新聞社が初めて製作した多目的取材・宣伝車「道新ぶんぶん」号だ。自家発電機や小型印刷機を搭載し、極寒の災害現場や、電気や通信手段のない被災地でも単独行動できることを目指した。
 背景には、さまざまな苦い思いがあった。
 その一つに豊浜トンネル崩落事故がある。1996年2月。冬の積丹半島。日本海から吹きつける風は身を切るように冷たい。岩塊の下敷きになった犠牲者20人全員が発見されたのは崩落から8日目。救出作業を見守ってきた遺族は疲労の極致にあった。狭い取材車の中で、つかの間の暖をとる取材陣には風邪がまん延していた。寒さをしのげる取材指揮車、そこから写真や原稿を送信できたら…。
 有珠山噴火(2000年)も原点の一つだ。自然災害は、被災が広範囲に及び、避難も長引く。本紙で提供しきれない生活情報を避難所ごとに発行できたら…。デジタルカメラや携帯電話に充電できる場所があったら…。
 事件や事故ばかりではない。02年ワールドカップでは、当社も号外を発行した。札幌ドームの観戦客が、市街の大通公園に戻るまでの1時間でカラー速報1万部を出したかった。輪転機を回せば、カラーも部数も問題ないが、郊外の印刷工場からでは間に合わないかもしれない。体裁もA3判カラーの方が見栄えする。そのためカラーの商業印刷と小型印刷機のモノクロ印刷を組み合わせ、大通公園に隣接する本社の会議室に印刷機を並べた。読者の評価は高かった。だが、せっかく整えた製作態勢も日本戦を含む6回の発行で解体となった。これを常設できないか…。
 ぶんぶん号には、そんなさまざまな思いが込められた。


4つの目的
 具体化したのは04年1月。「試しに予算請求してみようか」といった軽い気持ちで社内各部署に依頼し、検討を始めた。目的として(1)編集号外の発行(2)NIE活動の支援(3)主催事業の宣伝やイベント新聞の発行(4)被災地での取材指揮や生活情報の発行−の四つの柱を掲げた。北海道、東北地方で大型地震が相次いだことも追い風となり、製作が認められた。
 やがて仕様が固まった。車は29人乗りの四輪駆動小型バスを改造し、定員六人とした。普通免許で運転できるのが利点だった。車内には(1)自家発電機(出力5キロワット)(2)カラー・プリンター2台(一台毎時=A4判片面約1,000部)(3)モノクロ印刷機2台(同=A3判片面約6,000部)−のほかパソコン、デジカメなどを搭載する。故障を想定し、発電機以外はすべて複数配置にした。発電機を載せたことで、停電地帯でも活動できる。被災地では通電していても「電気を貸して」とは言い難い。これは、取材マナーへの批判が強まった中越地震で生きることになった。
 改造費や備品を含めると総額は1,200万円を超えたが、5年リース方式としたことで月額21万円と値ごろ感のある価格に落ち着いた。
 外観には北海道日本ハム・ファイターズとコンサドーレ札幌のマスコットをあしらい、大きく「Doshin」の文字を入れた。「隠し味」として屋根に本紙題字を乗せた。被災地での活動を考慮し、落ち着いたデザインにしたかったが、宣伝車という性格もあり、結果的にいささか目立つ外観になった。完成は04年8月末。当社主催の北海道マラソン会場でデビューした。


報道ボランティア
 「ぶんぶん号をお貸しします。自由に使ってください」。中越地震発生から4日目の04年10月27日。当社の申し出に、新潟日報社から正式な派遣要請をいただき、準備が始まった。製作担当の情報技術局員3、運転担当の総務部員2に取材・整理要員を兼ねた渉外担当の経営企画室員2の計7人の派遣チームが決まり、3時間後には3日分の非常食を含む携行品、装備をぶんぶん号に積み込んだ。異例の早さだった。それだけ気がはやっていた。
 というのも「派遣」のかたちで他紙の指揮下に入るのは初めて。ぶんぶん号が災害出動するのも、海を渡るのも当然初めてだった。「報道を通じて被災地のお役に立つ」という意味では、報道ボランティアの心意気もあった。それに、正直なところ、被災地でぶんぶん号がどれほど機能するか、試してみたいという思惑があった。翌28日午前、ぶんぶん号は新潟行きフェリーに乗り、小樽を出港した。午後には先着隊が空路新潟入りし、29日早朝にぶんぶん号と合流した。
 派遣を決めた27日は、震源地に近い小千谷で震度3以上の余震が、まだ1日に20回以上もあった。小千谷市街は道路が寸断し、全体で8万人を超す住民が避難所暮らしを強いられていた。長岡、小千谷に入った30日は、被災1週間にあたった。住民は、昼は家の片づけ、夜は余震が怖くて避難所に戻る生活を続けていた。ストレスはピークに達していたと思われる。
 新潟日報の取材チームとの打ち合わせで、避難所を巡り、明るい話題を探し、人々に届ける。明日の希望につながる子どもたちの笑顔を前面に出す、といったおおよその方針を確認した。


新聞人として
 初日は午前五時に新潟市内を出発した。長岡・阪之上小学校の避難所で「ここだけ新聞」第1号を発行した。A3判両面カラーで500部。心身共に疲れ切った人々に果たして受け入れられるのか、「こんな時に何が」と反感を買うのではないか、と心配した。だが、「ご苦労さま」と頭を下げられることが多く、こちらが当惑するほどだった。「私たちのことを見て、伝えてくれるだけでありがたい」との言葉は胸に響いた。
 ぶんぶん号の運転を担当した後藤稔は後日、こんな感想を寄せた。
 「川口町では、生徒の安否確認のため、先生たちが崩壊住宅を1軒ずつ訪問していました。新聞を見て『○○ちゃん、この避難所にいたんだ』『元気そうで良かった』と言ってくれました。小千谷市の岩沢や塩殿地区は、道路の崩落で一時孤立し、住民は精神的にも肉体的にも限界だったと思います。そんな中、『おれの家も壊れた。これからどうしたらよいのか』と言う男性に、どう言葉をかけて良いか分かりませんでした。でも、私たちが北海道から来ていることを知ると、体調まで心配してくれました。目頭が熱くなり、この人たちのためにも情報発信を続けなくては、と思いました」

 組み版や印刷を担当した製作リーダーの森明弘は、別の視点から「被災者には、物資や金銭以外に精神面の支援が大切」であり、「ここだけ新聞」が孤立感を薄める上で役立ったのではないかと考えた。
 後藤と同僚の斉藤徹也は、交代でぶんぶん号を運転し、避難所に到着後は新潟日報の復興スローガン「地震に負けずがんばろう」の横断幕を車体に掲げるなど設営や買い出し、情報収集、新聞配布などなんでもこなしてくれた。
新潟入りし、「ここだけ新聞」を製作した「道新ぶんぶん」号
新潟入りし、「ここだけ新聞」を
製作した道新ぶんぶん号
 「職種のデパート」といわれる新聞社だが、分業が進むことで「新聞づくり」の生の充実感を味わう機会はめっきり減ったように思う。その意味で今回は、技術や車両の担当者を含む全員が、設営から取材、配布まで行い、同じ「新聞人」として緊張や感動を共有できた。あらためて鍛え直された旅だった。
 新潟では、実質5日間で8回、最大震度7を記録した川口町や旧堀之内町(魚沼市)を含む地域で計3,900部の「ここだけ新聞」を配布した。現地で天気予報の重要さを肌で感じた経営企画室の井村浩也は、急きょピンポイント天気予報を紙面に差し込み、当紙の小学生新聞「フムフム」通信員から寄せられた激励メッセージとともに高い評価をいただいた。何よりエリアを超えた新しい地方紙連携の手ごたえを得た。

日常活動
 ぶんぶん号の初年度(04年8月-05年3月)の出動実績は22件、延べ42日となる。フードランド北海道記念新聞(事業局)、美唄市長選号外(編集局)、プロ野球スト号外(同)、芦別出前講座(NIE)、別海パイロットマラソン記念新聞(釧路支社)、新函館市合併記念新聞(函館支社)、エフパラ来場者記念新聞(メディア局)など多岐にわたる。社内認知とともに四月からの二年度目は爆発的に引き合いが増える可能性があり、出動は年間50回程度と見込んでいた製作や運行担当は悲鳴を上げそうだ。
 ぶんぶん号は、日程調整などの総括管理は経営企画室、車両維持と運行は総務部車両、製作は情報技術局が分担する。こんなルールも内々で決めた。「どんな出動も一度決めたら軽々に中止はできない。NIEの授業に穴を開けたり、楽しみに待つ人をがっかりさせたりはできない。4つの目的のトップに編集号外の発行は掲げるが、必ずしも事件・事故を最優先にはしない」と。
NIE出前講座での車内見学
NIE出前講座での車内見学

知恵の蓄積
 ぶんぶん号に関連した工夫は、小さいながら、まだいくつかある。
 組み版に高価な専用ソフトを使わず、ウィンドウズ系のパソコンに大概搭載されているワープロソフトの「ワード」を使うこと。データの互換性を優先した結果だ。新潟でも日報社とのデータ受け渡しは円滑だった。学校や販売所に組み版データを渡し、個別に手直しして発行してもらうことも可能となる。ワード組み版を追求し、新潟にも出向いた情報技術局の中川睦と工藤秀次は「難しいレイアウトには時間がかかるが、新潟のような一度作った紙面の手直しであれば、いくつかの基本操作の組み合わせで容易に製作できる」と話す。
 中越地震では、通信手段としてドコモのFOMA、au、衛星電話のインマルM4を持ち込んだが、現地入りが被災一週間後だったこともあり、すべて使用可能だった。結果的にFOMAを使用したが、データ渡しに役立ったのが、当社が自社被災時の記事・写真送稿や紙面データ伝送、社員安否確認用に開発した災害ウェブサーバーだった。「ここだけ新聞」に使う記事やカット類を新潟日報社が同サーバーにアップロードし、現地からは完成したPDF紙面をアップして互いに手の空いたときにダウンロードした。アップしたPDF紙面は当社もホームページに使い、複数拠点間のデータ交換に有効だった。
 ぶんぶん号の内部は狭い。とは言え、取材車の機能も持たせたかったので、使っていないときはプリンターや印刷機の横や上部にパソコンを置いて記事を打てる収納型のテーブルを多数設けた。多少窮屈だが、最大で10台程度のパソコンは置ける。車内コンセントも8カ所設けた。
 取材・号外車というコンセプトは珍しくないだろうが、新潟以降、問い合わせを随分いただいた。先日、見学に来た山陽新聞社の担当者には「予想以上に機能的なので驚いた」と、お褒めにあずかり、恐縮した。

 実は、これまでの活動をもとに新たな改造を行う。車外で作業できるように車の屋根にロール型に収納する防水タープ(テント)や、イベントの案内放送を流すスピーカーなどを取り付ける。その後、衛星電話の自動追尾型アンテナ取り付けまでは検討している。
 新潟派遣では、多くの教訓を得た。電源や通信手段の確保は重要だが、臨機に対応できる要員教育も欠かせない。災害サーバーは有効だった。緊急車両通行証を持たずに出動したのは失敗で、急いで取り寄せた。こうした知恵を早期にまとめることができたのは幸いだった。
 最後になるが、出動の機会を与えてくれた新潟日報社に深く感謝したい。併せて、被災した方々が一日も早く、もとの暮らしに戻られることを念じてやまない。
(たけの・しんじ)
*「新聞研究」掲載原稿を一部手直ししました